選者=大石雄鬼
忌日俳句というと、妙に真面目になる人が多い。その人のことを深く知っていなければダメだとか言う。安易に作ってはいけないという。でも、本当にそうだろうか。他の季語の使い方はそれほどでもないのに、忌日になると、なぜそんなに目くじらをたてるのだろうか。
天気さんは、「忌日俳句を読んでいると、人名俳句とさほど変わらないように思えてくることがある。」と書いているが、私もそう思う。忌日とか言いながら、ほとんど季感などはどうでもよく、さらに言えば、殆どの場合、いつ亡くなったかということさえも知らない。
レトルトパウチ熱し鈴木その子の忌 恵
レノン忌のクレヨンで塗りたくる森 てふこ
雲が雲にぶつかる三波伸介忌 ameo
編集部無人開高健の忌 てふこ
レオナルド熊の忌歯医者さんへ行く 遥
こうやって見ると、いくぶん忌日俳句には暗さがあるように感じられるし、死というものをうっすら意識してしまう。まあ、レノンの場合、忌日でない人名俳句であったとしてもそう感じるだろうが、三波伸介やレオナルド熊や開高健なら、忌日でなければそう暗さを感じないだろう。逆に、充分俳句にされてきた、虚子忌とか、子規忌とか、桜桃忌などの方には、死や暗さというものを感じない。忌日になまなましさが無くなってしまっている。
〔今週の1句〕
レノン忌のクレヨンで塗りたくる森 てふこ
ジョンレノンのことはさほど知らないが、怒りのようなものがこの句に感じられる。というか、ジョンレノンからそのように感じられ、この句を補足しているのかも知れない。森をはみ出るほどに、強く厚く塗られていく緑。レノンと作者がクレヨンを塗られた森を通して、繋がりあっている。
■大石雄鬼 おおいし・ゆうき
1958年生まれ、埼玉県育ち。現代俳句協会会員、「陸」同人、「豆の木」所属、1996年に現代俳句協会新人賞。2008年前に豆の木賞。
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