2009年12月28日月曜日

今週の一句 2009/12/20 - 12/26 上野葉月

選者=上野葉月


句会で提出された忌日俳句が話題になるとき、別の忌日に取り替えても形を成すんじゃないかという意見をよく耳にするように思う。歳時記に載っている数多の季語の中でも忌日は一種特別の軽さのようなものを感じる。死者というのは理解しやすいという誤解を与える存在なのかもしれない。

結局、死んでしまった人間というのは生きている(死にかけている)人間に比べれば取っつき易いと言ってもいい。むしろ評価が急に変わりようもない安定感というか。かと言って、たとえば角川春樹氏に関するまとまった評伝の類は多くないけど春樹氏が亡くなったらそういうものが一気に出回りやすくなるだろうというようなことが言いたいわけではない(そういうことも少しは言いたいのかもしれないが)。ともあれ故人というのは、まあどいつもこいつも成仏していて所謂「涅槃で待ってろ」状態であるわけだ。

「人間五十年」とは云うけれどちょっと考えてみると五十年って長すぎないか。もちろん人類は哺乳類の中でも大型の方だけど、ヒトと同じ程度の大きさの羊だってたしか寿命は十五年ぐらいだったような気がする(ちゃんと調べていない)。確か猪や野生の豚も同じ程度だったような。ヒトよりはるかに大型の馬だって二十五年も生きなかったんじゃないか。

人類を極端に自己家畜化の進んだ動物であるとする定義はけっこう有効で使い手があるかもしれない。しかしいくら自己家畜化が進んでいるからといって五十年以上というのはどうだろうか。せいぜい三十五から四十ぐらいが妥当なような。私は自転車通勤のせいか世田谷の住宅地などでペットとして飼っている豚と朝の散歩している人を時折見かけるけれど、ああいう風に大事にされている豚というのは何年ぐらい生きるのだろうか。



人間って年齢が高くなるほど自殺者が増えることはよく知られているけど、ガンでも心臓病でも自殺を伴うようなうつ病でも結局「老化」の一言で片付けてしまっていいんじゃないかというようなことを最近よく思う。平均寿命が五十に達していないような国や地域ではガンや心臓病や自殺が目につくことは少ないように感じる。

数ヶ月前に電車内で雑誌の吊り広告で「介護地獄」という言葉を目にしたが、正に地獄という言葉がふさわしく思えた。

子育てはあんなに楽しいのに親の世話というのは何故あれほどまでに辛いのだろう。精神的、肉体的、そして経済的(ここは特に強調しておきたい!!)負担は地獄の名にふさわしい。たまたま私だけが偶然そういう状況に陥ったとはとても思えない。

〔今週の一句〕

羅生門くぐれぬ三船敏郎忌  遥

映画『スターウォーズ』一作目(Ep.4)の冒頭が『七人の侍』のオマージュなのは有名だが、ジョージ・ルーカスは当初オビワン・ケノービの配役として三船を考えていたそうだ。しかし当時すでに三船はアルツハイマーの症状が始まっていてオファーを断わらずを得なかったらしい。三船のオビワンというのは是非見てみたかったとは思うが、こうやってアルツハイマーと打ち込むだけでもキーを打つ指先が恐怖に震える。

長年私は自殺から非常に遠いところにいる人間だと自分を見なしてきたのだが、昨今の私は子供達に迷惑をかけたくないという理由だけでもしかしたら自殺という選択肢も十分可能だと思えるようになってきている。


■上野葉月 うえの・はづき
「豆の木」「THC」で活動中。ブログ「葉月のスキズキ」

2009年12月21日月曜日

今週の一句 2009/12/13 - 12/19 小林苑を

選者=小林苑を


忌日というのは濃いなと思う。なにごとかを成し遂げた、成し遂げとは言えないとしても、一生が完結した人ということなので、当然か。人名句と少しだけ違うとしたら、そこだと思う。

だから忌日を詠み込むとなると、そこで書くか、離れるかということになる。離れるとは、誰かが生きて、そして死んだ日も、こんな風に日常或いは世界はあるというわけだけれど、実は関係ない「ふり」なのだと伝わらないと忌日句にはならない。結果、忌日俳句も濃いめになるのだと思う。


〔今週の一句〕

壁があるカンディンスキー忌の壁だ  露結

そこで書くという位置そのものを句にしたという点で、離れてもいるという意匠の優れた句で唸った。

カンディンスキーの壁ではなく、カンディンスキー忌の壁だというのだから、言っていることは「ある日のある壁」というだけのことである。だけれども、読み手の前にははっきりと壁のようなカンディンスキーの絵が立ちふさがる。カンディンスキーの絵が壁のようだと言われて、私はひどく納得した。



腕組めば仰木彬の忌なりけり  露結

目の前に監督仰木彬が立っているとしか言いようがない。胸が熱くなる。

すれちがふ顔みな岸田今日子の忌  露結

思わず笑ったけれど、これは怖い。姉さんならもっと怖い。姉妹ならそれはそれで。

しづかなる道頓堀やカーネル忌  露結

離れてる「ふり」の優れた句。

力道山忌や角栄忌はそこで句群、マンガーノ忌やユルスナール忌は離れた句群なのも面白かった。


■小林苑を こばやし・そのを
1949年東京生まれ。「里」「月天」所属。

2009年12月15日火曜日

今週の一句 2009/12/6 - 12/12 大石雄鬼

選者=大石雄鬼


忌日俳句というと、妙に真面目になる人が多い。その人のことを深く知っていなければダメだとか言う。安易に作ってはいけないという。でも、本当にそうだろうか。他の季語の使い方はそれほどでもないのに、忌日になると、なぜそんなに目くじらをたてるのだろうか。

天気さんは、「忌日俳句を読んでいると、人名俳句とさほど変わらないように思えてくることがある。」と書いているが、私もそう思う。忌日とか言いながら、ほとんど季感などはどうでもよく、さらに言えば、殆どの場合、いつ亡くなったかということさえも知らない。


レトルトパウチ熱し鈴木その子の忌   恵

レノン忌のクレヨンで塗りたくる森  てふこ

雲が雲にぶつかる三波伸介忌   ameo

編集部無人開高健の忌  てふこ

レオナルド熊の忌歯医者さんへ行く  遥

こうやって見ると、いくぶん忌日俳句には暗さがあるように感じられるし、死というものをうっすら意識してしまう。まあ、レノンの場合、忌日でない人名俳句であったとしてもそう感じるだろうが、三波伸介やレオナルド熊や開高健なら、忌日でなければそう暗さを感じないだろう。逆に、充分俳句にされてきた、虚子忌とか、子規忌とか、桜桃忌などの方には、死や暗さというものを感じない。忌日になまなましさが無くなってしまっている。


〔今週の1句〕

レノン忌のクレヨンで塗りたくる森 てふこ

ジョンレノンのことはさほど知らないが、怒りのようなものがこの句に感じられる。というか、ジョンレノンからそのように感じられ、この句を補足しているのかも知れない。森をはみ出るほどに、強く厚く塗られていく緑。レノンと作者がクレヨンを塗られた森を通して、繋がりあっている。


■大石雄鬼 おおいし・ゆうき
1958年生まれ、埼玉県育ち。現代俳句協会会員、「陸」同人、「豆の木」所属、1996年に現代俳句協会新人賞。2008年前に豆の木賞。

2009年12月7日月曜日

今週の一句 2009/11/29 - 12/5 榊 倫代

選者=榊 倫代

忌日といえば、わたくし事だが息子が生まれたのが今年の桜桃忌で、「太宰治とちょうど100歳違い」と家族の間ではちょっと話題になった。

太宰はとうに卒業したが、せっかくなので再読をと文庫を数冊購入した。今は涎をたらしながらニマニマしているだけの赤ん坊だが、十数年もすれば「晩年」だの「人間失格」だの読むかもしれないし。太宰になぞまったく興味を持たずに育つのなら、それはそれでよし。

「毎日が忌日」で、先週が忌日だった何人かの人々とは懐かしい再会をした思いがした。岡田由季さんが書いていらしゃったように初めて知る人との「面白い出会い」あり、忘れていた人との邂逅あり、で、大変楽しく選句した。

実を言うと、忌日を季語とみなすことには違和感がある(歳時記に載っているいないは関係なく)。俳句は有季でなければいけないというものでもないが、季感を伴った句にひかれた。


〔今週の一句〕

桃缶の汁の甘さよハマクラ忌   露結

風邪には桃缶。炬燵には蜜柑。子どもの膝には赤チン。浜口庫之助の歌は、子ども時代を思い出させる。

風邪をひくと桃の缶詰を買ってきてもらうというような習慣は、私の子どものころにはまだあったように思う。熱っぽい体を起して、桃缶やら林檎のすりおろしやらを母の手から食べさせてもらう。甘くて冷たいものを食べると少し気分が良くなって、薬ものんでぐっすり眠ると、翌日にはだいたい熱も下がっていた。

桃ももちろん美味しいが、わずかに黄みをおびたとろりとした汁も楽しみのひとつ。きょうだいで取り合うようにして飲んだ。おそらく、今だったら甘過ぎて飲めたものではないのかも。

今時の子どもは、病気の時だけの特別の食べ物ってあるのだろうか。ちなみに浜口庫之助作曲「ねことめだか」という歌は今でも「おかあさんといっしょ」の定番曲。



蛍光灯まぶしき鈴木その子の忌   てふこ

光を持ってきたのはつき過ぎのようにも思うが、明るいけれど無機的な蛍光灯は、最晩年のその子の姿や、どうやらあまり幸せではなかったらしいその生涯を思わせて哀しい。


さかさまにモップの乾くザッパの忌   ameo

逆様に立て掛けられて干されているモップと、ザッパとの距離感がいい。仲冬らしい乾いた空気感。


■榊 倫代 さかき・みちよ
1974年生まれ。「天為」同人。

2009年11月30日月曜日

今週の一句 2009/11/22 - 11/28 陽 美保子

選者=陽 美保子


忌日俳句の嬉しいところは、何といっても、これからどんどん新しい俳句が生まれる可能性に満ちているということだろう。何しろ人はどんどん死んでいくのだから忌日は増える一方だ。

有季定型を守っている俳句作者にしてみれば、どの季語を使っても、ほとんど誰かが読んだような句ができてしまう。それを免れようとして目新しい俳句を作っても、自分が面白がっているだけのような俳句になってしまうことが多い。新しい視点を打ち出し、しかも人がなるほどと唸ってくれるような俳句を生みだすことは至難の業である。

その点、新しい忌日が季語になってくれたら、こんなにありがたいことはない。読み古された季語で悪戦苦闘する必要はない。俳句作者のために、ここで名句が生まれ、季語として認められる忌日が増えんことを!

[今週の2句]

雲流れ自転車飛ばしルイ・マル忌 猫髭

この上五・中七の感覚、ルイ・マルの映画の雰囲気にぴったり。ひょっとしたら映画のひとコマにこういう場面があったのかもしれないが、そうでなくてもよい。とにかく、雰囲気が合っているのだ。「ルイ・マルの映画は音楽のセンスが頭抜けている」と猫髭さんが書いておられるが、私もまったく同感。まるで、その映画のために音楽が作られているような、いや、映画が音楽か音楽が映画かというほど一体化している。私の一本は「恋人たち」。あのブラームスの弦楽六重奏曲はあまりにも官能的だ。ずっと秘めていた情熱がどうしても抑えきれず沸々と湧いてくる感じ。以来、ブラームスのこの曲を聞くたびに悶々としてしまう。とにかく、猫髭さんのコメントに共感したのだが、改めてこの句を眺めてみると、さらりと詠んでいるようで実によく考えられている。「流れ」「飛ばし」という言葉の斡旋は、映像の動き、そして音楽の流れを感じさせる。久々にルイ・マルの映画が見たくなってきた。


百円がまだ百五円三島の忌 野口裕

一読何のことかよく分からなかった。でも、面白そうで立ち止まってしまった。すでに作者の術中にはまっている。三島由紀夫が亡くなってから記念のコインでも発売されたかしら…、いや違うな。これは、きっとネットオークションだろう。そうだ、きっと三島由紀夫の文庫本をネットオークションに百円で出品して、それが何日か経ってもまだ百五円の値段しか付いていないということだろう。出品者としては泣きたいところだが、しかしこれは、三島由紀夫の本がまだ稀覯本にはなっていない証拠、つまり、人気があって読み継がれており、出版も絶えていない証拠である。忌日の句は故人を敬う気持ちがないといけないというが、この句は、それを前面に出さず、しかも敬意が十分込められているとみた。そう思うと、百円の百という字が何やら寿ぐように見えてくるから不思議。


■陽 美保子 よう・みほこ
1957年島根県松江市生まれ。札幌在住。平成12年「泉」入会。平成17年泉賞受賞。第22回(2008年)俳壇賞受賞。現在「泉」同人、俳人協会会員。

2009年11月22日日曜日

今週の一句 2009/11/15 - 11/21 さいばら天気

選者=さいばら天気


忌日俳句を読んでいると、人名俳句とさほど変わらないように思えてくることがある。今週の句で言えば「現像液に女浸してマン・レイ忌」(露結)、「黴が好きお上嫌いで秋聲忌」(猫髭)などがそう。だから悪いというのではなく、特定の人物への思い、という点では、忌日俳句も人名俳句も同じだろう。

人名という固有名詞に、さまざまな事象が集約されるという点でも、忌日俳句と人名俳句は似ている。


〔今週の一句〕

アストロノミーアストロロジーケプラー忌  野口裕

天文学者として知られるケプラー(1571年12月27日 - 1630年11月15日)が占星術師でもあった事実を、今回はじめて知った。ケプラー曰く「このおろかな娘、占星術は、一般からは評判のよくない職業に従事して、その利益によって賢いが貧しい母、天文学を養っている」(Wikipedia)。一般の評判は天文学(アストロノミー)が上、金持ち(上流)がカネを出すのは占星術(アストロロジー)という16~17世紀の図式は、現代と逆のようにも思える。

 

波郷忌の日めくりなれば響きけり  春休

「霜柱俳句は切字響きけり」(波郷)。霜柱の頃か、波郷忌(11月22日)も。

俳句の「切れ」が隔てるのは二枚の紙片、と思うと、なんだか合点が行く(おなじ一枚の紙片の中に収まるのが一句一章)。次の紙片の印字が透けてみるが、決して同じ平面にはないものへの展開。


さいばら天気 さいばら・てんき
1955年兵庫県生まれ。1997年「月天」句会で俳句を始める。1998~2007年「麦」在籍。現在「豆の木」会員。現代俳句協会会員。2003年「麦」新人賞、05年、06年「豆の木賞」受賞。ブログ「七曜堂

2009年11月16日月曜日

今週の一句 2009/11/8 - 11/14 五十嵐秀彦

選者=五十嵐秀彦


それにしても毎日毎日の命日をチェックしている編集サイドの苦労も大変なものだが、ここまで忌日が並ぶと90%以上はなんの関係も興味もない人ばかりだ。であればこそ、思い入れもなにもないところからガラガラポンと作句することになるのだろう。

えらく面白い句が並んでいる。忌日俳句は難しいとか、面白くないとかいう「常識」は、あっさり剥がれ落ちてしまった。歳時記にあるだのないだのという「重箱の隅」論からも、軽軽と解放されている。

日ごろ、字面、ゴロ、多少の思い入れで都合がつけば忌日俳句も作ってきた自分としては、このコーナーは目からウロコが落ちるようであり、楽しみでもある。


〔今週の一句〕

道に穴ショパン猪狩の忌なりけり   ameo

ショパン猪狩って誰だっけ、とまず思う。あの「レッドスネーク・カモ~ン」の芸人であろことを知り、なんともユニークでかつユル~イ芸人だったなぁと懐かしみ、そして、死んでたのね、と小さく驚く。

東京コミックショーと言われればすぐにわかるが、ショパン猪狩という芸名にはあまり馴染みがない。コメディアンの芸名なのだから、滑稽な名前であるのは商売人として当然と思いながら、ショパンとはまたおそろしく遠距離な取り合わせで、その「人の喰い方」が面白い。芸名の話ばかりしていても仕方がないか。

「レッドスネーク・カモ~ン」なのだから、そりゃあ道には穴が開き、穴の奥では奥さんの蛇がその出番を待っている。そんな黄泉の道に、ショパン猪狩が珍妙な服を着てぼんやりと立っているのだ。

*

 ● 草野心平忌      野口裕

これしかないじゃないか、というほどの句。心平の代表作を置き、草野心平忌と置き、それで一句にしてしまうなんて、著作権という概念を軽く蹴り飛ばしている。「●」は草野心平そのものでありながら、誰のものでもなく、同時に誰のものでもあるという、それは普遍的な一喝なのだろう。


なんとなく馬鹿ね横山隆一忌   猫髭

横山隆一という漫画家の、あの「フクちゃん」をリアルタイムで知っている人は私の世代あたりが最後だろうか。子ども心に、どこか古臭い漫画だと思っていたものだ。横山隆一の漫画は、毒がなく、シンプルなユーモアと、幼きものたちへの社会全体の愛情のようなものがあった。今の若い人に読ませても、さしずめ「どこで笑うの?」と言われそう。そのスローな印象に、「なんとなく馬鹿ね」のフレーズが効いているなぁ。


笑ひ方泣き方サトウハチロー忌  露結

サトウハチロー。私にとってはどこか気に入らない響きがその名にある。昭和を代表する詩人であるとは思いつつも、自分が何を詠むかより、人がどんな詩を欲しているかに敏感な人、という印象が強い。それはそれで詩のあり方のひとつとは思う。この句はその点で、サトウ・ハチローのそんな面を言い得ている。人はこの詩人から、笑い方や泣き方を教えてもらった。教わることではないのに、教えられてしまった。そして同時に、このフレーズの巧みさもサトウ・ハチローのある種のあざとさを連想させるものだ。忌日俳句が得意ではない私にとって、こうも自在に忌日で俳句を作れる人がいることに驚くばかりである。


■五十嵐秀彦 いがらし・ひでひこ
1956年生れ。札幌市在住。現代俳句協会会員、「藍生」会員、「雪華」同人、迅雷句会世話人。第23回(2003年度)現代俳句評論賞。サイト「無門」

2009年11月9日月曜日

今週の一句 2009/11/1 - 11/7 岡田由季

選者=岡田由季


忌日の俳句は、自分にとっては詠むのも読むのも、あまり得意なジャンルではないですが、この企画のようにいろいろな人が登場すると、なんだか楽しいです。

誰かの作った忌日の俳句を見て、初めて物故したその人を知るというのも、面白い出会いかもしれませんね。


〔今週の一句〕

くもりのちはれのちくもりユトリロ忌  露結

くもりのちはれ、だと明るい印象ですが、のちくもり、までたたみかけるところがなんとも。ユトリロの描く街の風景に合っていると思います。



カーテンが安物ポール・モーリア忌  ameo

納得度ではこの句が一番でした。
「エーゲ海の真珠」などぴったり。
寂しげな呼応なのですが。


正装の奏者なりけりテルミン忌  てふこ

テルミンという楽器、実は映画「タナカヒロシのすべて」で知りました。
デフォルメされたメージかもしれませんが、不思議な印象が残っています。
楽器奏者が正装なのは普通ですが、テルミンの場合は程良いおかしみがあると思います。


安田伸忌の明治屋のコンビーフ  ameo

固有名詞が二回も出てくるいう荒業。なつかしさの度合がちょうどいいようです。
クレイジーキャッツの人ということ以外、安田伸を知らず、具体的なコンビーフのエピソードがあるかどうかわからないのですが、たぶん無い気がします。


■岡田由季 おかだ・ゆき
1966年生まれ。東京出身、大阪在住。「炎環」「豆の木」所属。2007年第一回週刊俳句賞受賞。ブログ「ブレンハイムスポットあるいは道草俳句日記」

2009年11月2日月曜日

今週の一句 2009/10/25 - 10/31 三宅やよい

選者=三宅やよい


昨日は天皇賞だったので
東京競馬場へ。期待のウオッカをはずして穴馬が来たので、
波乱と言えば波乱だったが、考えれば秋の天皇賞で
一番人気がすんなり勝ったことはないのだ。
そう思えば、勝ち馬のラッキーナンバー 
「2」を入れるべきだったと結果として思う私であった。
「結果」と言えば忌日俳句も全て結果の世界ではある。
著名俳人の多くは、自分が死んだら「◎●忌」にしてほしい、なんて
今から準備している人も多いかもしれないけど、ほとんどは
その心配は杞憂に終わり雑魚のごとく一掃されるだろう。
多くの俳人の忌日より、今日でいえば、
天皇賞のレース中骨折しあえなく安楽死となった
サイレンススズカ思うと、今でも胸が熱くなる。

〔今週の一句〕

タルホ忌の目から☆出すお月さま  猫髭

同郷のタルホは私にとって近いようで遠い。
少年愛の世界、と言ってもあのマントヒヒのような容貌で、
と、思って以来作品は読んでいない。
だからまったくわからないのだけど、なんとなく感じを
つかんでいるようでおかしい。



冥土での恋や事業や年尾の忌  野口裕

年尾は実直な二代目ホトトギス番頭といった印象。
虚子の選を引き継いだあとは
さぞ苦労したことでしょう。冥土でこそ
のびのび幸せかも。

蟀谷に梅干貼つて粂子の忌  猫髭

こめかみに梅干し、ずいっと後ろに下げた襟元。
長屋のおばあさんの図ですな~。
浦辺粂子の声が響くようで渋い。


■三宅やよい みやけ・やよい
1955年神戸市生まれ。現代俳句協会会員。「船団の会」会員、「豆の木」に参加。句集『玩具帳』『駱駝のあくび』。清水哲男『新・増殖する俳句歳時記』木曜日担当。

2009年10月27日火曜日

今週の一句 2009/10/18 - 10/24 上田信治

選者=上田信治


現代の作者の忌日俳句というと、近年は特に「子規忌」の句が作られることが多いように思うんですが、現代から見た俳句の神様ってことなんでしょうかね。ドラマチックだし。「虛子忌」は、なんだか気安く、親戚あつかいで作られている気がします。逆に「芭蕉忌」は、歳時記なんか見るかぎりは、あまりいい句がないですなあ。

〔今週の一句〕

茶碗蒸ジョナサン・スウィフト忌だと思う  野口裕

そんなことを思う人は、いないだろうと思うんですが、「茶碗蒸」というのが、なかなかに、なかなかかと(忌日ならなんでもつきそうですが)。

 

アラカンの忌や補陀落の海の見ゆ  ameo

高倉健といっしょに、網走から逃げて逃げて、西の彼方へというイメージでしょ うか。


テーブルの傾いてゐるセザンヌ忌  露結

鳥どちの頭の小さしカザルス忌  ameo

ちょっと昔のモダニズムみたいで、懐かしい感じがしてよかったです。


■上田信治 うえだ・しんじ 
1961年生れ。「ハイクマシーン」「里」「豆の木」で俳句活動。ブログ「胃のかたち」

2009年10月18日日曜日

今週の一句 2009/10/11 - 10/17 振り子

選者=振り子


生き死にを地続きと思えば忌日は折り返し地点、ターニングポイントほどの意味にもとれそうだ。この世に生まれたらひとりずつ忌日を持つことになる。毎日毎日忌日が生まれる。この世は忌日で満員だ。

故人の印象とは少し離れたものあるいは瑣末なものがあると忌日が働き出す。たぶんその故人の生前よりも亡くなった後にデフォルメされ(とかくデフォルメされる)、蓄積された情報のほうが拡がりをもってくるからだろう。考えると忌日俳句を詠むという忌日への接近は実に俳句らしい。

〔今週の一句〕

チャイム鳴るバーンスタイン忌の正午  ameo

バーンスタインは十月に亡くなっていたのか。正午の時を告げるチャイムの音がバーンスタインの忌日に私生活領域を感じさせることになった。バーンスタインといえばニューヨーク。でもニューヨークではないここ、晴れた日の昼のチャイムが鳴るけだるさ。忌日に「チャイム」が利いている。

煙草に火をつけたバーンスタインがビルの影からホモセクシャルな目を見開いている映像が浮かんでしまった。



アメリカやビング・クロスビー忌の遠く  露結

あの「古きよき」アメリカの象徴といえるビング・クロスビー。忌日をモノのようにぽんと遠くに置く視線はいかにも前アメリカを眺めている。「アメリカや」というベタな言い方もいい。私たちがあこがれた60年代のあのアメリカは今や失墜し、もはやあこがれでもなんでもなくなってしまった、嗚呼アメリカよ。「遠く」が余韻として鳴っている。


読めぬ字は飛ばしてミヤコ蝶々忌  ameo

ミヤコ蝶々と言えば南都雄二、あの間合い。何と言う字か読めぬなら飛ばす、は絶妙。


■振り子 ふりこ
「百句会」「月天」「豈」同人。俳句BBS「Satin Doll」

2009年10月13日火曜日

今週の一句 2009/10/4 - 10/10 太田うさぎ

選者=太田うさぎ


私自身は初心の頃に"○○忌"を作ることに先輩俳人からやんわり否定的なことを言われて以来、忌日俳句にはどうも手が伸ばせないのですが、こうやって亡くなった人びとを思い出して軽い親しみを込めた挨拶を送るのもいいものですね。世の中は生きている人ばかりで出来ているんじゃないんだな、と感じます。

〔今週の一句〕

遅れ髪ひとずぢもなき好江の忌  遥

「ひとすぢもなき」というところが、漫才芸人としての矜持を感じさせていかにも内海好江らしい。シャキっとしたおばさんでしたよね。

 

駅弁の豆の三粒や鶏郎忌  ameo

うーん、何だろうか、このいい具合のツキ感は。「豆三粒」というところが、「ミツワ石鹸」の唄云々ではなく妙にしっくりと来て、記憶の底の底に埋もれていた三木鶏郎という名前とCMソングの幾つかが浮かんできたのだった。


Tシャツを干せばはためくゲバラの忌  露結

チェ・ゲバラの名を初めて知ったのはデビッド・ボウイの歌、その後Tシャツのデザインとして見かけるようになった。今でも私の認識はそう大して変わらない。けれど、着込まれて型崩れもしていて、汗も沢山吸い込んできたTシャツ、それが風に強くはためいているのが何か叛旗のようで、ゲバラのイメージに格好よく重なります。


クリストファー・リーヴ忌の空持て余す 露結

スーパーマンとして一躍名を馳せた彼。乗馬事故により車椅子の生活を余儀なくされた晩年のことを考えると、「持て余す」がなんとも切ない。


■太田うさぎ おおた・うさぎ
1963年東京生まれ。「豆の木」「雷魚」会員。現代俳句協会会員。

2009年10月5日月曜日

今週の一句 2009/9/27 - 10/3 馬場龍吉

選者=馬場龍吉


好むと好まずに拘らずヒトは○○フェチである。言葉フェチがあるとすれば、俳人はほとんどそうだろう。言葉に対する反応は頭抜けていると言える。

忌 日俳句は自分ではほとんど詠まない。まず物故その人を知らないと出来ないし、その人を悼む気持ちが無ければ詠めないと思っているからだ。かと言っていつも きれいな言葉で飾って詠む必要はないであろう。その人を知っていたら、「どうして早く逝ってしまったんだよオマエ」と小突くような俳句でもいい。それも悼 みの表現の一つであるだろう。やはりその人と酒杯を傾けた仲でもないと詠んではいけないような気がする。

〔今週の一句〕

都会とふ大き便器やデュシャンの忌  露結

そう言われれば都会ってそうだよね。よく捉えているようだ。ところで肝腎のデュシャンは名前くらいしか知らない。便器の作品を多く遺した人だったろうか。

デュシャン忌の泉に茂る便器かな  猫髭
近づけば蓋上げデュシャン忌の便器  春休
デュシャン忌のオート開閉便器かな  春休
デュシャン忌の便器から湯を掛けられをり  春休

と詠まれた作者は、デュシャンフェチなのだろうか。それとも便器フェチなのだろうか。先に揚げた句はなかでもデュシャンその人を悼む心があるように思う。

 

夜光蟲(ノクテリコ)の群の単音(モノトン)マイルス忌  猫髭

海で育ってマイルスに没頭した人でなければ詠めない作品だろう。発光する夜光蟲の光をまるで交信しているかのように思い。その無音の世界にマイルスの音が聞こえてくるのだろう。光と音を詠んで佳作。

 

風吹くと森歌い出すウディの忌  露結
外壁のきららの光る山蘆の忌  遥
里山の団栗踏んで狐狸庵忌  猫髭
軽石でGパンこするディーンの忌  猫髭

こういう静かな作品は文句なく好きだなー。

それにしても週俳の『毎日が忌日』を「お気に入り」に入れるようになると、りっぱな忌日フェチだ。


■馬場龍吉 ばば・りゅうきち
1952年新潟県生まれ、東京都在住。第49回(2004年)角川俳句賞受章。「蒐」編集人。俳俳本舗BBS

2009年9月29日火曜日

今週の一句 2009/9/20 - 9/26 齋藤朝比古

選者=齋藤朝比古


〔今週の一句〕

割烹着つけて京塚昌子の忌 遥

肝っ玉母さんですね。忌日俳句はこれくらいベタでよろしいかと個人的には思っています。岡本信人さんも若かったなぁ。

 

東京のためいき松尾和子の忌 猫髭

これもベタですが松尾和子さんじゃないと様にならない芯の強さを感じる句です。ためいき漏れまくりで歌う「再会」は名曲です。



齋藤朝比古 さいとう・あさひこ
1965年東京生れ。1993年より石寒太に師事。「炎環」同人。「豆の木」副代表。第21回(2006年度)俳句研究賞。

2009年9月20日日曜日

今週の一句 2009/9/13 - 9/19 小野裕三

選者=小野裕三


〔今週の一句〕

片口のひや酒ふふむ牧水忌 猫髭


俳句は忌日を題にするのが好きです。これは単に俳人たちの性癖の問題というより、俳句という文芸の本質にどこか繋がっていることのように思います。俳句とは「冥界の文学」である、という趣旨の文章を僕は以前に書いたことがあります。少なくとも、僕自身にとっては俳句を捉える時に「冥界の文学」とするのが一番ぴったり来るのです。

やや余談ですが、このネーミングにはヒントになったものがあって、島田雅彦氏が川端康成の小説を評して「冥界で俳句を詠んだような」としていて、これはまた適切な表現だ、と思いました。確かに川端の小説はどれもこれも「冥界で俳句を詠んだような」雰囲気に満ちているのです。そんなわけで、いつの日か「俳句史としての川端康成」という文章を書いてみたいと思っているのですが、これはいまだに果たせていません。

ともあれ、俳句とは冥界的であり、であるがゆえに、忌日と俳句の関係にもやや特殊なものがあります。ただし、逆に言うと俳句の本質に近すぎるがゆえに、忌日俳句は不用意に作るとつまらないものになります。つまらないというか、あまりにも当然すぎる俳句になってしまいます。つかず離れずのバランス感覚を俳句の実作において養う、という意味では、忌日俳句はいい訓練の場になるのかも知れません(僕自身は実は忌日俳句は苦手です)。掲句も、つかず離れずのバランス具合がいいと思います。牧水と言えば酒と旅はつきものではあるのですが、その定番の酒をうまく生きた風景として処理しています。


漆黒の傘やグレース・ケリーの忌 知昭

この句もそんな感じでしょうか。漆黒の傘、いいですね。特に漆黒にぐっと来ました。


小野裕三 おの・ゆうぞう
1968年、大分県生まれ。神奈川県在住。「海程」所属、「豆の木」同人。第22回(2002年度)現代俳句協会評論賞、現代俳句協会新人賞佳作、新潮新人賞(評論部門)最終候補など。句集に『メキシコ料理店』(角川書店)、共著に『現代の俳人101』(金子兜太編・新書館)。サイト「ono-deluxe」

2009年9月13日日曜日

今週の一句 2009/9/6 - 9/12 樋口由紀子

選者=樋口由紀子


〔今週の一句〕

黒澤忌バターナイフのさらに銀  知昭


忌日には蓄積された情報が濃密に詰まっている。この情報を個性と工夫でいかに切り取っていくかが腕の見せ所のようである。

忌日俳句は忌日に収斂してこそが一句の価値なのだろうか。まったく関係のないことを言ったり、飛躍しすぎてはいけないのだろうか。しかし、あたりまえのことをあたりまえに言ったのではおもしろくない、とつい川柳人の習性で思ってしまった。中間がいいとも一概には言えない。右寄りか左寄りか、体重のかけ方の微妙なバランス感覚が顕著に忌日俳句には表われている。

ちなみに忌日川柳というのはあまり聞いたことはない。ひょっとして、どこかにあるのかもしれないが、たぶん一般的ではないと思う。「川柳忌」はあるが、『川柳総合大事典』(雄山閣)によると(「忌日川柳」という項目はなかった。)、歴史用語(今日では見られなくなった用語)に分類されている。川柳の祖と言われ、前句附けの点者(選者)であった初代柄井川柳の忌日で、江戸時代からあった行事とある。

 川柳忌かざる言葉のありやなし   村田周魚

〈黒澤忌バターナイフのさらに銀〉は、ベタなイメージを取り省き、誰も気づかないところをクローズアップしている。忌日の固定化したイメージから、一皮剥いだ感触があったものを選んだ。


〔補〕

廃屋の婚礼箪笥鏡花の忌  春休

口紅の斜めに減つてセバーグ忌  猫髭

千代女忌の酸素一個に水素二個  ameo

ポケットの底の綿屑あんつる忌  ameo

先生せんせいセンセイ去来の忌  野口裕

何ちやつてと君が舌出す海童忌  猫髭

アンソニー・パーキンス忌のシャワー室  ameo


樋口由紀子 ひぐち・ゆきこ
1953年大阪府生まれ。姫路市在住。「MANO」編集発行人。「バックストローク」「豈」同人。句集に『ゆうるりと』『容顔』。セレクション柳人『樋口由紀子集』。共著に『現代川柳の精鋭たち』。川柳Z賞受賞。川柳句集文学賞受賞。「川柳MANO」サイト 

2009年9月5日土曜日

雑談ボード

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