選者=馬場龍吉
好むと好まずに拘らずヒトは○○フェチである。言葉フェチがあるとすれば、俳人はほとんどそうだろう。言葉に対する反応は頭抜けていると言える。
忌 日俳句は自分ではほとんど詠まない。まず物故その人を知らないと出来ないし、その人を悼む気持ちが無ければ詠めないと思っているからだ。かと言っていつも きれいな言葉で飾って詠む必要はないであろう。その人を知っていたら、「どうして早く逝ってしまったんだよオマエ」と小突くような俳句でもいい。それも悼 みの表現の一つであるだろう。やはりその人と酒杯を傾けた仲でもないと詠んではいけないような気がする。
〔今週の一句〕
都会とふ大き便器やデュシャンの忌 露結
そう言われれば都会ってそうだよね。よく捉えているようだ。ところで肝腎のデュシャンは名前くらいしか知らない。便器の作品を多く遺した人だったろうか。
デュシャン忌の泉に茂る便器かな 猫髭
近づけば蓋上げデュシャン忌の便器 春休
デュシャン忌のオート開閉便器かな 春休
デュシャン忌の便器から湯を掛けられをり 春休
と詠まれた作者は、デュシャンフェチなのだろうか。それとも便器フェチなのだろうか。先に揚げた句はなかでもデュシャンその人を悼む心があるように思う。
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夜光蟲(ノクテリコ)の群の単音(モノトン)マイルス忌 猫髭
海で育ってマイルスに没頭した人でなければ詠めない作品だろう。発光する夜光蟲の光をまるで交信しているかのように思い。その無音の世界にマイルスの音が聞こえてくるのだろう。光と音を詠んで佳作。
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風吹くと森歌い出すウディの忌 露結
外壁のきららの光る山蘆の忌 遥
里山の団栗踏んで狐狸庵忌 猫髭
軽石でGパンこするディーンの忌 猫髭
こういう静かな作品は文句なく好きだなー。
それにしても週俳の『毎日が忌日』を「お気に入り」に入れるようになると、りっぱな忌日フェチだ。
■馬場龍吉 ばば・りゅうきち
1952年新潟県生まれ、東京都在住。第49回(2004年)角川俳句賞受章。「蒐」編集人。俳俳本舗BBS
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3 件のコメント:
>忌日俳句は自分ではほとんど詠まない。まず物故その人を知らないと出来ないし、その人を悼む気持ちが無ければ詠めないと思っているからだ。(中略)やはりその人と酒杯を傾けた仲でもないと詠んではいけないような気がする。
前半は同感です。一応全句集を読んで、かつ入れ揚げた俳人でないと詠めない。ただ、それだとこの企画成り立たないから(笑)、昔お世話になった故人が出て来ると、懐かしさで詠むというスタンスまで今回は入れています。
「酒杯を傾けた仲」だと却って忌日句は詠めないのではないか。言葉にしないで酒を飲んで一人偲ぶという時間になるか、パーッと親しい句友と飲んで歓談するかだと思います。お互い死んだ後で忌日句を詠むようなことは恥かしいからやめようね(笑)。
>その人を悼む気持ち
悼む(=死を悲しみ嘆く)のは、通夜とお葬式。忌日は、故人を「思う」日、と、私などは思っています。
その「思う」深浅の度合いなのですが、例えば、わたくしの句友に必ず句会で忌日句を詠む俳人がおまして、これが下手な鉄砲も数撃ちゃ中るで(笑)、たまたまその日が「多喜二忌」だった時かな、本人は多喜二の本など読んだ事がなくて、歳時記で見て、思いつきで作ってる。ところがその句が(「帝劇の満員御礼多喜二の忌」だったかな)滅法「思う」深浅の匙加減が良くて、わたくしなどは特選に採りましたが、披講で作者がわかると、その作り方を知っているせいか釈然としない(笑)。
詠み手が「思う」よりも読み手が「思う」深さの匙加減で、忌日句は成立してしまうところがありますね。「俳句は読み手が完成させる、詠み手にとっては未完の文芸である」と言われますが、忌日句は特にそう言えるような気がします。
忌日句は、今回初めてまともにチャレンジして面白い分野だと思いました。
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